2009年06月18日

ニューヨークのセントラルパークを設計した

ニューヨークのセントラルパークを設計したオルムステッドが、初めて自らをランドスケープ・アーキテクトと称して以来、ランドスケープのデザインは、特にアメリカの都市計画、あるいは広く環境デザインの領域において、重要な役割を果たしてきた。1873年、アメリカ合衆国のグロバー・クリーブランドの言葉を引用すると、「ランドスケープアーキテクチャ」は文明進歩の各種の要求に対して、最も便利に、最も経済的に、そして最も優美にするように土地を編成する技術」とした。1970年代には、産業の活性化と共に、公害などによる、環境の破壊が世界的に懸念され、自然と一体化したアートが生み出されるようになった。芸術品と土地を関連づけた、これらはランドアート(アースワーク)と呼ばれている。

日本では古来からは日本庭園で距離を利用し、風景の変化を作り出す手法、近くから順にコケ、低木、高木を配し、塀で風景を切り取り、遠くの山、空を借景で演出するなど、また個々の造園計画により、都市全体に魅力を持たせる手法、都市内に作られる公園、川辺の親水空間、建築物周辺の植栽、街路樹などの計画、構築する手法は一般的なことで、近年ではランドスケープの広告化、マンション広告の際にマンション敷地内の外部空間をランドスケープとして宣伝するまでになった。

ランドスケープは自然と人間界との事とかが入り混じっている現実のさまを意味するが、ランドスケープデザインはこの景の中の人間と自然や環境との関係を読み取り、それを形として空間に表現する分野である。そして芸術と科学という性格の異なった二つの領域で構成されている分野であり、豊かな生活環境の理想を実現し結うような空間を具体的につくる手段でもある。それらは建築や土木構造物以外の外部空間を対象とし、今日では庭から街路、河川、都市公園や広場、都市や商業モール、住環境。学校キャンパスやスポーツグラウンド、そして自然公園へと広範囲にひろがっている。これらのオープンスペースはわずか1世紀前までは都市の余白としてしかとらえられなかったが、都市の高密度化が進行するにつれ、それが都市環境を人間のもとに取り戻す重要な役割をもっている空間であることが判ってきたのである。
感染症
ケーブルテレビ
インフルエンザ
バイオリズム
戯曲
天体
喜劇
真菌学
日本画
宇宙ステーション
地層の作り
神社案内
未知の宇宙
脳と神経
日本の重要文化財
下町東京
広島の歴史
不動産用語
サンタはどこ
牛の生涯

公共空間を対象としている場合、つまり公共事業であるとユーザーは年齢、職業、性別ともに特定されなく、判断基準が不明確になるためしばしば審美性よりも明確な機能とか管理しやすさのみから判断される場合が多かったが、80年代からは都市における公共空聞への意識の高まりとともにランドスケープ・デザインという領域が認識されるようになり、主にアメリカで教育を受けた多くのランドスケープ・アーキテクトがさまざまな分野で活躍を始めるようになる。それまでとかく外構として、都市の残余、敷地の残余を埋める以上の役割を担っていなかった空地は、こうした状況下において、デザインの対象であることが認識されるに至る。建築家とランドスケープ・アーキテクトが協働をすることが当たり前になったのも、この時期以降である。この動きは、ともするとフォルマリスティックで表層的なデザインに陥る危険性をはらんでいたが、それまでの、単に喧騒をやわらげるための抽象的な緑でしかなかった植物を、生さ生きとした能動的な自然に引きあげたり、あるいは癒しの手段でしかなかった水やみどりを、より大きな生態系のなかでの自然現象を映し出す存在として位置付けたり、というように、都市と自然、人間の営為と自然との関係を再定義することに大きな役割を果たすことになった。

2009年06月01日

自然選択の例

有名な例がキリンの首であろう。高いところの葉を食べるのに有利だったから長い首を持った個体が生き残った、と説明される。ただし、選択圧は一つだけとは限らない。長い首は辺りを見回すのにも有効である。一方で、それを維持するための負担がある。首を支えるには大きな体が必要で、そのためには食料も多く必要になる。脳まで血液を送るための強靱な心臓と、逆に鬱血しないための脚の特殊な構造が必要であるが、これらは首を長くしない方向の選択圧である。キリンは600万年かけて4mの首を持つに至ったが、一年あたりで言えば1,000分の6ミリにすぎない。ダーウィンフィンチで見られるように、選択圧は双方向に働き、長くなったり短くなったりしながら今日のキリンになったと考えられる。
ダーウィンフィンチ
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1970年 - 80年代に観察された自然選択の例。長い乾期によってダーウィンフィンチが主食にしていた木の実が少なくなると、堅い実を食べるのに適した大きな嘴を持った個体が選択的に生き残った。その後、大雨で食料が増えると、大きな嘴を持つ個体は(体の維持などの点で)不利となり、全体の平均的な体格は縮小する傾向を示した。単純に体格や嘴の平均値が変化するだけではなく、性選択の影響も同時に受け、複数の小グループに収斂する様子も観察されている。
オオシモフリエダシャク(英Peppered moth Biston betularia)
オオシモフリエダシャクはイギリスの蛾。19世紀に観察された、自然選択の有名な例としてよく用いられた。工業暗化という言葉でも知られる。工場の煤煙で樹木が黒ずんだため、黒っぽい個体だけが生き残り、その後環境が回復すると白色の個体が増えたという研究である。19世紀半ばから50年間で、黒色個体の数は2%から98%にまで増えたとも言われる。この現象はアメリカでも見つかっている。一方で、蛾の黒変病を誤認したのだとか、煤煙に含まれるマンガン化合物を摂取したからだ等の批判もある。創造論者のジョナサン・ウェルズは著書『進化のイコン』でこの蛾の説明に用いられる写真を詐欺的だと批判した。死骸をピンで木に張りつけた捏造写真であると指摘したのだが、その写真は自然状態を説明する物でなくただ単に白色個体と黒色個体を並べて見比べるために撮影されたにすぎない。また、黒い個体と白い個体ははじめからいて、その個体数が変化したにすぎないとも批判される。現代の進化の定義では、そのような性質の頻度の変化も進化と見なすが、確かにこの例は進化を実証する説得力のある例とは言えない。しかし自然選択と言うメカニズムの実例ではある。
昆虫の薬剤抵抗性(薬剤耐性も参照のこと)
1987年5月にアーカンソー州で見られた綿花につく蛾はピレスロイドの散布で6%しか生き残れなかった。数世代を経たあとの同年9月には61%の蛾が生き残った。有機リン酸系、ピレスロイド、DDTなどに抵抗性を持つ蛾、ハエ、蚊が見つかっている。世界各地で発見されているDDTに耐性を持つハマダラカは、1960年代にアジアかアフリカのどこかで誕生した一匹の突然変異体の子孫ではないかと考えられている。昆虫の殺虫剤への抵抗はダーウィン自身も指摘していた。

2009年04月28日

リウビル-フォン・ノイマン方程式

NMRの観測は磁化ベクトルの変化を検出することによって行なう。磁化ベクトルは試料内の個々の核スピンから生じる磁気双極子モーメントの総和である。よってNMRは理論的には核スピンの集団の磁場に対する応答として記述される。このような集団は量子力学では密度演算子によって記述される。密度演算子の挙動を表す方程式はリウビル-フォン・ノイマン方程式である。この方程式には注目しているスピン系とその周囲の環境(格子と呼ばれる)全体を記述する密度演算子が含まれている。しかし、通常NMRの挙動を解析するためには注目しているスピン系の情報さえ分かれば充分である。そこで次のような、スピン系のみの簡約化された密度演算子に対する変形したリウビル-フォン・ノイマン方程式が用いられる。(なお、ここでは式はNMR分野での慣用に従い、ディラック定数を省略してエネルギーを角周波数単位で表す方法を用いている。)
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ρはスピン系の密度演算子、Hはスピン系のハミルトニアン、Γは緩和を表す演算子、ρ0は熱平衡状態のスピン系の密度演算子である。スピンのx成分、y成分、z成分の統計的期待値はIx, Iy, Izをそれぞれスピンのx成分、y成分、z成分の演算子とすると、それぞれρ?Ix、ρ?Iy、ρ?Izの行列表現のトレースに等しい。スピンにより生じる磁気双極子モーメントはスピンの期待値ベクトルとγ(h/2π)の積となる。さらに磁化ベクトルは磁気双極子モーメントと系内の核スピンの個数の積となる。 周囲に何も存在しない裸の核スピンがただ1つ存在する場合、ハミルトニアンHは-γI?B0である。Iはスピン演算子である。実際には周囲の電子や他のスピンとの相互作用の結果、ハミルトニアンには他の項が付け加わる。以下にそれらの原因となる相互作用を示す。

2009年04月13日

王 舜(おう しゅん、? - 16年)

王 舜(おう しゅん、? - 16年)は、中国の前漢末期から新代にかけての政治家。冀州魏郡元城県の人。父は大司馬・安陽侯の王音。子は王延、王匡。王莽の従弟にあたり、王邑・王渉とも従兄弟である。

前漢での事跡
王邑とともに、王莽の親族にして腹心として活動した人物である。

永始2年(紀元前15年)、父・王音の死にともない、安陽侯を継承する。綏和1年(紀元前8年)、王舜は駙馬都尉から太僕に遷るが、翌綏和2年(紀元前7年)、病のために免職された。元寿2年(紀元前1年)、車騎将軍に遷り、同年7月、皇太后王政君、王莽らの命により、王舜は中山王を出迎え、平帝として擁立している。その後、時期は不明ながら、王舜は大司馬兼車騎将軍に昇格した。元始1年(1年)、太保兼車騎将軍に遷り、太傅王莽、太師孔光、少傅甄豊とともに四保となった。その後、やはり時期は不明だが、驃騎将軍に遷っている。

居摂1年(6年)3月、王舜は太傅兼左輔に任命され(驃騎将軍と兼任)、孺子嬰を補佐した。居摂2年(7年)9月の東郡太守翟義の反乱の際には、甄豊とともに夜間に宮中を巡回し、王莽を護衛した。

居摂3年(8年)、王舜は、王政君に伝国璽を王莽に引き渡すように求める使者となった。要求を聞いた王政君は激怒し、王舜も内心は悲嘆を感じていたが、それでも王舜は王政君を説得して、彼女が投げつけた伝国璽を受け取り、王莽に献上した。

新での事跡 [編集]
始建国1年(9年)、王莽が新を創建するとともに、哀章が献上した銅匱の符命に従い、王舜は太師に任命され、安新公に封じられた。これにより王舜は、太傅平晏、国師劉歆、国将哀章とともに四輔とされている。

王舜は、古くから劉歆、甄豊らとともに王莽の台頭を支えていたが、摂皇帝以上の地位にのし上がる王莽に対しては、むしろ恐怖を覚えていた。また、符命を献じるなどして新たに王莽の側近となった人物たちの台頭にも押されている。そのためか、王莽が皇帝に即位した後の王舜は心臓を患い、天鳳3年(16年)、死去した。

子の王延が父の爵位である安新公を後継し、その弟王匡が父の地位である太師将軍に任命されている。

ハンド パーム ドシア バンス ソルト オース サイバ レスト ソナー プラハ デイする 未来の喜び 足跡 せきりん シーツ 金乃竹 ブルーロー ダンエス サイエン パネル 風の華 ファイア レーション フレット リファレンス マルチーズ キールサエ ヤグルマ草 平核無柿 バイバイ オースチン はそく トウヒ ラスト フレーク ヒストリー デコル かおう 百の城 イヤー ケイブ ならたけ ワインリス ユーロス 沖の石 クイック たてじま なみがさね 汽車ポッポ モノローグ


2009年03月29日

からくり時計

からくり時計(からくりどけい)とは、時計(置時計など)に特殊な表示機能を追加したもので、その多くではからくりなど自動人形などが時報として何らかの人形劇を上演したり、音楽を奏でたりといった機能を持つものを指す。
「からくり」は、元々は時計などの機械装置全般を指した。後にからくり自体は日本で「からくり人形」に代表される古典的なロボット(自動人形やオートマトン / オートマタなど)を指す語となり、これが19世紀にヨーロッパに伝えられると、「Karakuri」と呼ばれるようになり、いわゆるオートマタのような精巧な人の動きを真似る人形などもからくりと呼ばれていったようだ。

語源からすれば時計に機械を組み入れること(中に機械要素のない時計は動きようがない)を指しているような「からくり時計」という語だが、「からくり」が機械仕掛けの人形を指すようになると、これを組み入れた時計をからくり時計と呼ぶようになったと推察される。

いわゆる「からくり」は外部からの操作をきっかけとして何らかの動作を行う装置(後述)だが、これを時計と連動させ、所定の時間にからくり仕掛けの動作を行うものが、いわゆるからくり時計とされる。

からくり時計の一端には、鳩時計のように時報を鳩の模型と笛などで表す物が挙げられるが、一般にからくり時計というと、これを更に複雑化して人形劇などを上演して見る者の目を楽しませるものが主である。オーケストラを模したものもある一方、観光地では地域の歴史を表す劇を毎日正午などに上演するものも見られる。これらは、その複雑さや規模にもよって個人向けから時計塔などに組み込まれた公共のものまで、様々なものが存在している。

機能 [編集]
基本的にこれらからくり時計は、時計機能と仕掛け表示機能の2系統の機械装置を、時報という機能で連結させたものである。時計が表示装置に時報というきっかけを与えると、イベントドリブン(何かのきっかけを与えられると動作を開始する機能のこと)装置である仕掛け表示機能が働く。

時計部分は時報というきっかけを与える訳だが、時計自体の表示機能がないと時計としては役に立たないため、仕掛け表示部分の上などに時計としての時刻表示機能を持つ。高度化されたものでは、時刻表示機能が一時的に移動して仕掛け部分がせり出し、何らかの動作が終わったら時刻表示に戻るなど、一見するとからくり時計に見えないものも存在する。

旧来は機械式時計(アナログ)であったが、後にクォーツ時計が開発され、この電気的な時計が後にデジタル時計などに置き換わっていくようになると、時計部分はデジタル時計で、表示機能部分はアニマトロニクスなど電動式でコンピュータで制御するもの(→シーケンス制御)などの高度化・複雑化したものも登場している。

また、この仕掛け表示機能を完全に映像機器にとって替わらせ、指定時間には所定のスポット映像(広告など)を放映するものもみられるが、こちらは大型映像機器が社会にとってあたりまえとなった地域では、あまり注目されることもない場合も見られる。

関連項目 [編集]
時計 - 鳩時計
時計台
からくり
カリヨン

設置されている(主な)地域・施設
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー - 市参事会酒宴場に街に伝わるワイン一気飲みに関するものがある。
新天町 - 福岡県福岡市にある商店街。1981年に設置された。
金公園(こがねこうえん) - 岐阜県岐阜市。1988年6月に設置され、当時の岐阜市の姉妹・友好都市(アメリカ、イタリア、中国、ブラジル)の人形が1日4回踊る。
岐阜メモリアルセンター - 「サーカスビレッジ」。同じく岐阜市。
有楽町センタービル - 「マリオンクロック」。千代田区有楽町。
そごう - 「世界の人形時計」(店舗によっては「イッツ・ア・スモールワールド時計」などと呼ばれた。)大手百貨店、1985年開店の横浜店(開店当時は横浜そごう)以降既存・新規店舗問わず日本と台湾の多くの店舗へ設置された。(からくり時計の機能としては2008年4月15日の閉店時刻(殆どが20時)をもって終了、翌日以降時計と時報チャイムの機能で存続。)横浜・神戸・千葉・柏・広島・川口・呉・西神・大宮・徳島の10店舗に設置してあった。撤退したそごうでは多摩・奈良・八王子柚木・茂原・加古川・福山・小倉・黒崎にも設置してあった。
札幌駅 - SL型の時計で、正式名称「SLミネラルサウンドクロック」。演奏時、SLのヘッドライトが点灯する。
芽室駅 - 4月下旬から10月下旬までの間、1日6回人形が棒をたたいて演奏をする。冬の間は音のみの演奏を行い、音のみの演奏も含め、夏冬ともに1日10回の演奏が行われる。
白い恋人パーク[1] - 石屋チョコレートファクトリーの時計塔のほか、パーク全体で、人形(動物も)が踊る。
キャリ プラス 百目柿 コロッケ ピロー ビリア ブルース プレイパ ライブ 二輪草 タイム ミルク とまぴ こげちゃ だいせん おおば ダブル ネービ ヨハネ ほろば リル アイアール カレンシー がいせい ハイピッ にがうり トラップ フィス マロニ 紅い橋 プロイ みぎわ フォト モールド パンク メーク トリオ カバラ ライチー ハラム ギキョウ ナビリネン げきけい ブタノール スワン ナレッジ コクシ ディン トルコ マグレブ

類似する他の装置 [編集]
天文時計 - 時計と天体儀を連動させ、天体の運行を表示するもの。
時限爆弾 - こちらは爆弾というイベントドリブン装置を接続してある。使い捨て。

2009年03月14日

オランジュのローマ劇場とその周辺及び「凱旋門」

オランジュのローマ劇場とその周辺及び「凱旋門」は、南フランスヴォクリューズ県の町オランジュにある、ユネスコの世界遺産。特に劇場は他の都市の同種の遺跡に比べて保存状態がよいことで知られている。

古代劇場 (Théâtre antique) とも呼ばれる。1世紀、アウグストゥスの治世下で建造されたものであり、1951年に3.55メートルのアウグストゥス像も発見された。この像は、現在はもともと置かれていた場所と推測される壁龕に納められている。この劇場の収容人数は8000人から10000人程度だったと推測されている。

4世紀には劇場は放棄されて廃墟となったが、中世には防衛拠点としても用いられた。

1825年からはプロスペル・メリメの発案による修復計画が着手され、建築家シモン=クロード・コンスタン=デュフーに委託された。

1869年からは毎年夏に芸術祭が開催されている。当初「ローマ祭」(fêtes romaines) と名付けられていた祭りは1902年にコレジー (Chorégies d'Orange) と改称され、現在に引き継がれている(コレジーはギリシャ語で「舞踏」などの意味)。
恋人の色 ビーチ オーデコ ダチョウ 夢の恋路 ドゥーム プライマー ばんどう エブロ 黄昏ワル てっぷ フォロ フィラ チジン やはぎ ファイ ルソー フレンド アンラ イーシ フォークタ すずりいし らいち 夢待人 四季彩 日本の島々 真珠 デレヨイ ツーリスト オブソリ トーキ きがん サガ スクアレ スイムタル オーバル タージ ヒュッテ ミニホ ラーキー オービス スカフェ タイム イメージ ロボール 愛の ロンドン スターム ライブラリー マゼラ

劇場地区 [編集]
劇場周辺の劇場地区 (le quartier du Théâtre) からは祭壇が発見されている。
オランジュの凱旋門は、かつてのアグリッパ街道(リヨンとアルルを結んでいた)の途上に、紀元前20年頃に建てられたものである。古代劇場や現市庁舎のある区画からは少し北に外れた場所にある。

刻まれたレリーフの中では、特にガリア人とローマ人の戦闘や戦利品などが描かれた北面の保存状態が良好である

2009年02月25日

エノコログサ

エノコログサ(狗尾草)は、日本全土に分布するイネ科エノコログサ属の一年草。俗称は、猫じゃらし。

エノコログサ(Setaria viridis P. Beauv.)は、単子葉植物イネ科エノコログサ属の植物で、1年生草本である。ブラシのように毛の長い穂の形が独特な雑草である。

草丈は40-70cmになる。茎は細く、基部は少し地表を這い、節から根を下ろす。夏には茎が立ち上がって伸び、先端に穂をつける。葉は匍匐茎にも花茎にも多数ついており、最大20cm位、イネ科としてはやや幅広く、細長い楕円形、薄く、緑色でつやがない。茎を包む葉鞘と、葉身の境目につく葉舌は退化して、その部分に毛だけが残る。また、よく葉が裏表逆になっている。葉の付け根でねじれて、裏側が上を向くもので、そのような葉では、上を向いた裏側の方が濃い緑でつやがあり、下を向いた表側の方が、裏のような様子になる。

花序は円柱形で、一面に花がつき、多数の毛が突き出すので、外見はブラシ状になる。イヌビエなどの穂から出る毛は、小穂を包む鱗片(穎)の先端から伸びる芒であるが、エノコログサの場合、この毛は芒ではなく、小穂の柄から生じる長い突起である。

夏から秋にかけてつける花穂が、犬の尾に似ていることから、犬っころ草(いぬっころくさ)が転じてエノコログサという呼称になったとされ、漢字でも狗(犬)の尾の草と表記する。猫じゃらしの呼称は、花穂を猫の視界で振ると、猫がじゃれつくことから。
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小穂の構造
エノコログサの小穂は、果実が熟すると、一個の種子(実際には果実)を鱗片が包んだものに見える。小穂の中には花は一つしかない。しかし、本来は二つの小花があるべきもので、そのうち一つが退化したものと解釈されている。

穂の軸から出る、短い柄の先に、普通は一個の小穂がつく。第一包穎は背が低くて横長で、表側の基部を包む。第二包穎は第三穎と共向き合って小花を包んでいる。その内側には護穎と内穎に包まれた花がある。本来は、第三は消失した小花の護穎であったもので、小花の消失とともに内穎もなくなったものである。

変異
エノコログサはさまざまな所に生え、そのためもあってか種内変異が多い。穂が紫がかるものをムラサキエノコロ (forma purpurascens Maxim.)という。これは特に穂の剛毛が紫に染まるものである。また、海岸に生える型をハマエノコロ(var. pachystachys (Fr. et Sav.))という。違いとしては、背が低く、比較的よく地表を這うこと、茎や葉が短く硬いこと、それに、穂が短くほとんど楕円形で、小穂が密で毛が長く、そのために穂の外見がかなり異なる点が挙げられる。ただし、内陸に入ると次第に普通の型に移行する。

しかし、なんと言っても最大の変異はアワ(S. italica Beauv.)である。別種として扱われているが、エノコログサを元に作り出されたものと考えられている。エノコログサに比べると、高さは1mを越え、花序の長さは20cmにもなる。また、熟しても果実が簡単にはこぼれず、これは収穫をたやすくしている。かつては日本でも広く栽培された。これとエノコログサとの雑種があり、オオエノコロ(S. xpycnocoma (Steud.) Henrard ex Nakai)という。エノコログサに似るが穂が一回り大きく、また、エノコログサでは穂の軸の枝に小穂が一つずつつくのに対して、その枝に複数の小穂がついて、円錐花序になる点が異なる。畑地に時折見かけられる。

近似種
日本にある同属の種は7種ばかりある。

最も似ているのはアキノエノコログサ(S. faberi Herrm.)である。エノコログサによく似ているが、やや毛が多く、穂が細長くて垂れることなどが外見上の相違点である。小穂を見れば、エノコログサでは第二穎が小穂の長さと同じで、小花が隠れるのに対して、この種では第二穎が短く、小花が半分顔を出す。そのため、この両者は別種とされている。

ザラツキエノコロ(S. verticillata (L.) Beauv.)は、穂の剛毛に細かい逆棘があって、さわると非常にざらつくのが特徴である。群生しているところでは、穂が互いに絡み合っているのが見られる。

やや細い穂を出すのがキンエノコロ(S. glauca L.)である。穂は長さ3-10cmで直立し、茎や葉には毛がない。穂からでるブラシ状の毛が金色をしているのが名前の由来である。コツブキンエノコロ(S. pallide-fusca (Schumch.) Stapf et C. E. Hubb.)はこれに似て、小穂が一回り小さい。いずれも北半球の温帯に広く分布し、日本でもほとんど全土に普通に見られる。

エノコログサ属
この属の特徴は、先に述べたような小穂を、円錐花序につけるものである。また、小穂のつく枝に刺状の突起をもつ。世界に約100種が知られる。日本では、上記のエノコログサ類のほかに、以下の種がある。

イヌアワ(S. chondrachne (Steud.) Honda)
本州から九州の木陰にはえる多年草で、夏から秋にかけてまばらな円錐花序をつける。
ササキビ(S. palmifolia (Koenig) Stapf)
木陰にはえる多年草で、葉が幅広く、多数の縦じわがあって、ちょっとシュロの葉を思わせる。九州以南にあり、広くアジアの熱帯域に分布する。やはりまばらな円錐花序をつける。
日本産エノコログサ属(主なもの)

エノコログサ(Setaria viridis P. Beauv.)
オオエノコロ(S. xpycnocoma (Steud.) Henrard ex Nakai)
アキノエノコログサ(S. faberi Herrm.)
ザラツキエノコロ(S. verticillata (L.) Beauv.)
キンエノコロ(S. glauca L.)
コツブキンエノコロ(S. pallide-fusca (Schumch.) Stapf et C. E. Hubb.)
イヌアワ(S. chondrachne (Steud.) Honda)
ササキビ(S. palmifolia (Koenig) Stapf)

利用
現在は一般的に食用としては認識されていないが、粟の原種であるので食用に使える。若い葉と花穂は軽く火であぶり醤油などで味付けしたり(風味はポップコーンに酷似)天ぷらにしたりして食べられる。ただし終戦直後大量に食べて中毒を起こした学者がいる。近代以前の農村では酷い飢饉の際にカラスムギなどと共にこれを食用としたこともあった。オオエノコロは粟の遺伝子が流入しているので食用に供しやすい。 また、猫じゃらしの名の通り、これを用いて猫をじゃらすことができる。

2009年02月08日

インダス文明以来のインドの歴史について

紀元前2600年頃より、インダス川流域にインダス文明が栄えた。民族系統は諸説あるが、紀元前3500年頃に西アジアから移住してきたとの説もあるドラヴィダ人によるものという考えが有力である。パンジャーブ地方のハラッパー、シンド地方のモエンジョ・ダーロなどの遺跡が知られるほか、沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、メソポタミアと交流していた可能性がある。焼き煉瓦を用いて街路や用水路、浴場などを建造し、一定の都市計画にもとづいて建設されていることを特徴としていたが、紀元前2000年頃から衰退へとむかった。この頃になると各地域ごとに文化発展がみられ、アハール文化、マールワー文化、ジョールウェー文化などがその例として挙げられる。紀元前1700年頃までに滅亡したとされ、その要因として環境問題などが指摘されているが、インダス文字が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない。インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、沐浴の習慣やリンガ信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原形になったと考えられている。
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前期ヴェーダ時代
その後、紀元前1500年頃にアーリヤ人がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に移住し、先住民を征服した。アーリヤ人の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、部族の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされる。

アーリヤ人は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、アーリヤ人と先住民の混血も進んでいった。『リグ・ヴェーダ』において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものがヴェーダである。司祭者バラモンがヴェーダの神々をまつり、ここにバラモン教が成立した。

後期ヴェーダ時代とガンジス文明
十六大国
紀元前1000年頃より、アーリヤ人はガンジス川流域へと移動した。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。農耕技術の発展と余剰生産物の発生にともない、徐々に商工業の発展も見られるようになり、諸勢力が台頭して十六王国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた。十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった。

ウパニシャッド哲学と新宗教
ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中、バラモンに代わりクシャトリヤやヴァイシャが勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下に釈迦(ガウタマ・シッダールタ)によって仏教が、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)によってジャイナ教がそれぞれ創始され、「六師外道」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。

マウリヤ王朝の成立
マガダ国とコーサラ国の抗争は、最終的にマガダがコーサラを撃破することで決着した。紀元前4世紀後半、そのマガダ国のナンダ朝をチャンドラグプタが打倒したことで、マウリヤ朝が成立した。王位を息子のビンドゥサーラに譲ったチャンドラグプタはジャイナ教徒になったといわれている。

マウリヤ帝国と古代インドの諸王朝

マウリヤ帝国のインド統一
紀元前4世紀、最初の統一国家であるマウリヤ朝が成立し、紀元前3世紀のアショーカ王の時代に最盛期を迎えた。南端部をのぞくインド亜大陸の全域を支配し、ダルマにもとづく政治がなされ、官僚制が整備され、また、属州制を導入するなど中央集権的な統治体制が形成され、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。しかし、アショーカ王の死後より弱体化が進み、紀元前2世紀後半に滅亡した。その後、西暦4世紀にグプタ朝が成立するまでの数百年、北インドは混乱の時代をむかえることとなった。

クシャーナ朝
マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアの大月氏から自立したクシャーナ朝が1世紀後半インダス川流域に進出し、プルシャプラ(ペシャーワル)を都として2世紀のカニシカ王(カニシュカ王)のもとで最盛期を迎えた。この王朝は、中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸の要地を抑えており、「文明の十字路」としての役割を果たした。この頃、仏教文化とギリシア美術が結びつきガンダーラ美術が成立した。クシャーナ朝は、3世紀にサーサーン朝ペルシアのシャープール1世による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。

サータヴァーハナ朝と古代交易網
2世紀になると、南インドではデカン高原のサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)をはじめとする諸王朝がローマ帝国など西方との季節風貿易で繁栄した。南インドではローマ帝国時代の金貨が大量に出土しており、当時の交易がきわめて活発だったことを裏付けている。インドからは綿織物や胡椒が輸出された。このころはまた、北インドのバラモン文化が南インドにもたらされ、仏教が広がっていった時期でもあった。

なお、エジプトのギリシア系商人が著した『エリュトゥラー海案内記』は、当時の季節風貿易の様子を知る貴重な史料とされている。

大乗仏教のおこり頭上にナーガをいただくナーガールジュナ(龍樹)
マトゥラー出土の弥勒菩薩像(2世紀、ギメ東洋美術館)詳細は大乗仏教を参照

マウリヤ朝の崩壊からグプタ朝の成立までの時期の北インドは、政治的には混乱していたが、文化的には仏教やバラモン教の教義が発展し、すぐれた彫刻の生まれた時期でもあった。

西暦1世紀はじめには大乗仏教がおこり、2世紀にはナーガールジュナ(龍樹)が現れて「空」の思想を説いた。現代の大乗仏教は、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国、朝鮮半島、日本へ伝播した(北伝仏教)。また、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間の土俗信仰とがさかんに混淆し、ヒンドゥー教のもとが形成された。

仏像彫刻では、上述のガンダーラのほか、マトゥラーではインド様式による製作がなされるようになった。

2009年01月23日

メタルギアの開発元であるトップ軍需企業

メタルギアの開発元であるトップ軍需企業、アームズ・テック社の社長。メタルギアの演習に参加していたが、FOXHOUNDの蜂起により人質となる。ワイヤーに触れると爆発するC4トラップでオセロットに拘束されていた。忍者がオセロットの腕を切断したと同時に彼を縛っていたC4トラップが解除されるが、スネークに演習データの入った光ディスクを渡して会話を交わした後、FOX-DIEにより絶命する。業績悪化で会社の存続が危ぶまれていたため、新型メタルギア計画を推進していた。
ジム・ハウスマン(声:麻生智久)
まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん

国防長官。作戦終盤、キャンベルの身柄を拘束して自ら作戦指揮に乗り出し、核攻撃によるあらゆる証拠の隠滅という暴挙に出る。しかし、それは失敗し、結局は首謀者として逮捕される。『シャドーモセスの真実』によると、事件数日後に自殺したと報じられたが、実際は「愛国者達」の意により責任を取るよう要求され、それを断った結果暗殺された。家族や部下には、精神的に衰弱していたと自殺の兆候があったように証言をさせる偽装工作が図られたとされている。
ジョニー佐々木(声:今村直樹)
FOXHOUNDとともに蜂起した次世代特殊部隊の隊員。独房の看守を務める。下痢気味で、度々トイレに立つ。名前自体は攻略本の小ネタコーナーに紹介されていたが、ゲーム中に名前が出たのはインテグラルが最初である。
モデルは、テクスチャーデザイン担当スタッフの佐々木英樹で、当初の呼び名は「ササヤン」だったが、佐々木氏本人の希望で「ジョニー」に変更された。映画「ジョニーは戦場へ行った」とかけてゲームへの登場に至る。
クラーク
元FOXHOUNDのメディカルスタッフで、ナオミの前任者。FOXHOUNDに遺伝子治療を導入した張本人であり、新たなビッグ・ボスを創造する「恐るべき子供達計画」では主導的な立場にあった。既にグレイ・フォックスによって殺害されている為、劇中では名前のみの登場となる。「愛国者達」の創設メンバーの一人であり、MGS3ではパラメディックという暗号名で登場している。

FOX HOUND(フォックスハウンド)
リキッド・スネーク(声:銀河万丈)
FOXHOUND実戦部隊リーダー。今回のテロ事件の首謀者。スネークと同じ暗号名を持つ男。声や肌の色こそ違うが、容姿はソリッド・スネークと酷似している。元SIS出身で、10代で英特殊空挺部隊SASとして湾岸戦争に参加し、スカッドミサイルの移動発射台を破壊する特殊任務に就く。一時はイラクの捕虜となるが、救出された後、FOXHOUNDに入隊する。今回のテロに於いて同族の遺伝子が絶滅傾向にあると知り、原因と対処法を調べる為に米政府にビッグ・ボスの遺体を要求。冷戦が終結し、紛争が減りゆく時代に戦士が生かされる場所を望み、ビッグ・ボスの遺志でもある「アウターヘブン」の実現を決意する。ビッグ・ボスの優性遺伝子を集約され、その父親を自らの手で殺めたソリッドに対し、リキッドはビッグ・ボスの遺志を実現させる事で、運命への抗いを試みる。戦士として卓越した素質と能力を持っており、その戦闘能力はソリッド・スネークに匹敵する。劇中ではハインドで、F-16戦闘機を2機撃墜するなどの離れ業をやってのける。終盤、スネークと格闘の末にREXの上から転落するも生還し、スネークをあと一歩の場所まで追い詰めるが、スネークとの接触で感染したFOX-DIEにより絶命した。本人はビッグ・ボスの劣性遺伝子ばかりを受け継がされたと思い込んだまま息絶えるが、実際に優性遺伝子を受け継いでいたのはリキッドだった。
リボルバー・オセロット(声:戸谷公次)
FOXHOUND隊員。元スペツナズ所属。跳弾を自在に操る拳銃の名手であり、強制収容所の拷問特別顧問として参加したことがある程の拷問マニア。リキッドの補佐的存在。ソ連崩壊後、オモン特別任務民警支隊を経てロシア税務警察の突撃隊に身を置く。後にKGB第一管理本部を前身とするSVR(ロシア対外情報本部=スルージバ・ヴェネシュニイ・ラズウトキ)の特殊作戦部門に入るが、旧KGB体制に適応できずアメリカFOXHOUNDにスカウトされた。ソ連のアフガニスタン侵攻にも参加したことがあり、当時のアフガンゲリラからは「シャラシャーシカ」の通り名で恐れられる。西部劇やマカロニ・ウェスタンをこよなく愛すガンマニアであり、西部劇でおなじみのコルト・シングル・アクション・アーミーを愛用しており、「世界でもっとも高貴な銃」と言った。スネークと対決するも、乱入したサイボーグ忍者によって利き腕の右手を切り落とされて逃亡する。エンディングにおいてシアーズ大統領と通信する模様が描かれ、今回の事件の実質的首謀者だったことが発覚する。
シリーズ通して暗躍する「愛国者達」創設メンバーの一人。
バルカン・レイブン(声:堀之紀)
FOXHOUND隊員。ネイティブ・アメリカンとイヌイットの混血で、アラスカ大学出身の巨漢のインテリ。バルカン砲をも振り回す怪力と、それを背負ったまま走れる体力、シャーマンとしての超自然的能力を有する。アラスカのブルックス山脈等、人跡未踏の奥地で罠漁師(トラッパー)として狩りをするのが趣味。ソ連時代に極秘特殊部隊ヴィンペル部隊と共に特殊任務を行った経験があるが、93年のモスクワ騒乱事件で、大統領に左遷された多くのヴィンペル隊員と同じくロシアに見切りを付ける。その後OUTER HEAVENに参加しオセロットの紹介でFOXHOUNDにスカウトされる。額にワタリガラス(レイブン)の痣があり、全身にペトログリフィス(二千年前からネイティヴ・アメリカンの文化として残されている模様)の入墨を施している。本来、戦闘機に搭載されるM61A1機関砲を個人携行用に改造したものを武器とする。M1戦車戦では戦車を破壊され、部下の機銃手も全滅し、撤退。地下倉庫の戦闘でスネークに敗れ、真実の断片を語った後、自らの部下であるカラス達に亡骸を食わせた。
サイコ・マンティス(声:曽我部和恭)
FOXHOUND隊員。ソ連時代のロシアにて生まれるが、出産時に母親を失う。強力な念動能力と読心能力、対象の視界を操作する能力を持つ。元はKGBの超能力諜報部員で、ソ連崩壊後はアメリカに渡り、FBIに籍を置いてサイコメトラーとして幾つかの事件を担当していたが、捜査中に連続殺人者の精神に没入・同化し、その結果、猟奇殺人を犯してしまう。以降はフリーの諜報専門エージェントに転向、後にFOXHOUNDにスカウトされた。初めて他人の心にダイブした相手は実の父親だった。しかしその中には彼の出産が原因で妻を失ったという思いから、彼に対する殺意しかなく、殺意への恐怖から衝動的に父親を殺して村を焼き払う。他人の思念が入り込むのを防ぐ為、常時、マスクを着用している。特殊なノイズでメリルにダイブ(憑依)し、スネークと対峙させた。超能力が優れている半面、肉体的には鍛えられておらず、弱点を見切ったスネークに敗れ、隠し通路の扉を開いた後、静かに息を引き取った。
スナイパー・ウルフ(声:中村尚子)
FOXHOUND隊員。北方アーリア系の血を引く金髪碧眼の美女で、クルド人。ネパール出身のグルカ兵から学んだ超人的な狙撃技術と持久力を持つ天才狙撃手であり、一週間もの間、狙撃姿勢を保ち続けることができる。弾丸に水銀を詰めた特製マーキュリーチップを使用し、抗不安薬を服用している。紛争地帯で生まれ、ビッグボスに拾われてアメリカへ渡った後、スナイパーとして傍観者の立場となり、FOXHOUNDへと入隊する。狼犬(ウルフドッグ)を家族とみなし、世話をしている。初戦である通信塔での狙撃戦には敗退するも、間もなく背後を取ってスネークを捕らえる。敵ながらメリルを丁重に扱う彼女に対して、スネークも最期まで優しく接し、また、オタコンから愛されていた。二度目の戦闘で肺を撃たれ致命傷を負うが、緩慢な死を嫌い、スネークに頭を撃つよう依頼して最期を迎える。
デコイ・オクトパス
FOXHOUND隊員。経歴は不明。変装の達人で、その徹底ぶりは声や姿はおろか、血液までも変装目標のそれに偽装する。スネークから情報を引き出すべく、死亡したDARPA局長に化けていたが、独房にてスネークと接触したことにより、FOX-DIEに感染して死亡した。

派生版

メタルギアソリッド インテグラル

メタルギアソリッド ザ・ツインスネークス

作品中のジョーク要素
小島作品に多用される隠しイベントやジョーク要素が盛り込まれている。

ダンボール
シリーズおなじみの装備品となっているダンボールは、作中の人物から様々な反応があったり、トラックの荷台にまぎれて別の場所へ移動するなど様々なイベントが用意されている。
キャラクターの名前
自分の本名が「デイビッド」で、オタコンの本名が「ハル」と知ったスネークが「まるで木星に行けそうなコンビだな」と語る。これは映画『2001年宇宙の旅』に登場する宇宙船の船長が「デビッド・ボウマン」で、コンピュータが「HAL9000」、目的地が木星だったことに掛けたセリフとなっている。
小島監督作品の一つであるポリスノーツに、「メリル」とその相棒「デイブ」が登場するが、本名を名乗った直後のスネークも「デイブ」と呼ばれるシーンがある。
スタッフロール
エンディングのスタッフロールでは小島秀夫の名前が総勢20箇所登場する。1人で20箇所クレジットされるのは家庭用ゲーム史上初であった。

業界初の試み
ステージ構築やシステム面、販売戦略などで、複数の業界初の試みが行われている。

従来の2次元描写では平面図形を用いて紙にステージ構成を書き上げる事が出来たのに対し、今作では3次元という立体が扱える為、空間の構成がより複雑になった。このため急遽レゴブロックが用意され、CCDカメラによる角度等の細部の研究が行われた。これらが当時業界初である「複数のアングルを自由に切り替えられる」といったシステムを実現している。また、2次元ハードの時代から受け継がれている「視覚や聴覚に訴える手段」に於いても大幅にバリエーションが増した。後続のシリーズでは更なるハードの進歩により一層複雑な表現が可能となり、以後レゴブロックの採用は見送られている。

当時主流であったプリレンダによるデモシーンを採用せず、リアルタイムレンダリングによりゲーム画面と同じクオリティで劇を展開する事に徹し、ムービーが無くなる日を想定したとされる。[1]性能上の制約から画質は荒いローポリゴンとなった為、表情の細部を描写することが出来ず、キャラクターの会話中の感情等は陰影と首の動きによって表現している。このためモーションキャプチャーも採用していない。また、虚構と史実の区別が図られており、史実部分のみ実写ムービーが採用されている。

通常、プレイステーション用ソフトのパッケージは横向きだが、メタルギアソリッドは初の縦置き仕様が採用された。MOOK本の先行発売も行われ、これも業界初の試みであった。また、コナミの実況パワフルプロ野球という全く異なるジャンルの作品に体験版を付属し、新たなユーザー開拓を試みた。これ等は全てメタルギアシリーズが前評判を得る前のものだった。

コラボレーション
beatmaniaシリーズ - 『メタルギアソリッド』のメインテーマのリミックス曲が『beatmania(DISC2)』『beatmania 3rdMIX』『beatmania BEST HITS』(すべてPS用ソフト)及び、『beatmania GBMIX』(GBC用ソフト)に収録されている。
マリオとヨッシー(任天堂から)……人形で登場。撃つとボイスが聞ける。(GC版のみ)
ゲームキューブ本体とウェーブバード……上記のマリオの人形と同じ部屋にある。(GC版のみ)
ドリームミックスTVワールドファイターズ(PS2・GC)……主人公のスネークがゲストキャラとして参戦。隠しキャラなので最初から使用できない。
大乱闘スマッシュブラザーズX(Wii)……主人公のスネークがゲストキャラとして参戦。隠しキャラなので最初から使用できない。作中で行える無線ではキャンベル、メイ・リン、オタコンも登場し、無線画面はPS版のものが流用されている。その他、アイテム関連で多数のキャラや兵器が登場する。スマブラXのステージでは、シャドー・モセス島をモチーフとしたステージも登場する。

ラジオドラマ
文化放送系のアニラジ番組CLUB dbの枠にて、本作のラジオドラマ版が1998年10月24日から1999年1月9日にかけて放送された。監督は小島組の村田周陽が担当している。

脚本はゲーム本編の軍事アドバイザーを担当した毛利元貞が手がけた。スネークやメイ・リン、メリル、キャンベル大佐といったおなじみのキャラクターは登場するものの、ゲーム本編のストーリーとはほとんど関係はない。

2009年01月16日

良兼はまたも軍を起こして

シャンツェ こせん スーフィ フォーミュ 枯葉の輪舞 ペーンイウ ハヤシライ テラー ミズナラ コード ナウル コメン すぎな 全国情報 黒皮かぼち バイオス 黄金魂 フィーン ハング 明日へ ダッカ がんばれ ダッキ ダーティ 首飾り ヌメア オンシー オーオー シンク フライシト ボヨール アングル モサド フローリス カーフス ハラン フラット りーすりん マテリア 八千代 えびす ストーン シイ人気 ゆうすい ジェション 優しい雨 ソフト ブロック アルジェ ウジュン

同年8月、良兼はまたも軍を起こして、下総国と常陸国の境の子飼(小貝・蚕養(こかい))の渡しに押し寄せた。良兼は高望王と将門の父の良将の像を陣頭におし立てて攻め寄せた。将門軍は士気喪失して退却、勝ちに乗じた良兼軍は豊田に侵入して火を放った。将門は兵を集めて良兼に復仇戦を挑むが大敗してしまう。良兼軍は再度豊田に侵入して略奪狼藉の限りをつくし、将門の妻子も捕らえられてしまった。9月、またも良兼は兵を繰り出したが、将門はこれを迎撃して打ち勝った。良兼は筑波山に逃げ込む。

将門は元主人の藤原忠平に良兼の暴状を訴え、同年12月、朝廷から良兼らの追捕の官符が発せられた。将門は兵を集めて本拠を豊田から要害のよい石井へ移した。良兼は内通者から情報を得て、石井の館に夜襲をしかけるが将門軍は奮闘し撃退される。この敗戦の後、良兼の勢力は衰え、天慶2年(939年)6月良兼は失意のうちに病没した。

承平8年(938年)2月、身の置き所のなくなった平貞盛は東山道をへて京へ上ろうと出立するが、朝廷に告訴されることを恐れた将門は100騎を率いてこれを追撃、信濃国千曲川で追いついて合戦となり、貞盛側の多くが討たれるも、貞盛は身ひとつで逃亡に成功。上洛した貞盛は将門の暴状を朝廷に訴え、将門への召喚状が出された。6月、貞盛は東国へ帰国すると常陸介藤原維幾に召喚状を渡し、維幾は召喚状を将門に送るが、将門はこれに応じなかった。貞盛は陸奥国へ逃れようとするが、将門側に追いまわされ、以後、東国を流浪することを余儀なくされる。

さらなる争い
天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王と介源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、どういう経緯か不明だが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲し、驚いた経基は逃げ出してしまった。

京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を訴える。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月、関東5カ国の国府の証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門らへの疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。

この頃、武蔵権守となった興世王は正式に受領として赴任してきた武蔵守百済貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになり、また、常陸国の住人の藤原玄明が将門に頼ってきた。この玄明はやはり受領と対立して租税を納めず、乱暴をはたらき、更に官物を強奪して国衙から追捕令が出されていた。常陸介藤原維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い応じなかった。

対立が高じて合戦になり、同年11月、将門は兵1000人を率いて出陣した。維幾は3000の兵を動員して迎え撃ったが、将門に撃破され、国府に逃げ帰った。将門は国府を包囲し、維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。将門軍は国府とその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくした。将門のこれまでの戦いは、あくまで一族との「私闘」であったが、この事件により不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。

新皇と称す
興世王の進言[2]に従い将門は軍を進め、同年12月、下野国、上野国の国府を占領、独自に除目を行い関東諸国の国司を任命した。さらに巫女の宣託があったとして将門は新皇を称するまでに至った。将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、関東全域を手中に収めた。

この時将門が任命した関東諸国の国司は、以下の通りである。

下野守 平将頼
上野守 多治経明
常陸介 藤原玄茂
上総介 興世王
安房守 文屋好立
相模守 平将文
伊豆守 平将武
下総守 平将為
ちなみに国司の四等官において守(かみ)は一等、介(すけ)は二等である。常陸国、上総国、上野国は親王任国であり、親王が「守」として遙任するのが習いであり、現地の国司の最上級は「介」になる。叛乱勢力である平将門がこの慣習を遵守する必要は無いにもかかわらず、常陸、上総の両国の国司は「介」としている。一方で上野国は「守」となっており、無知ぶりを露呈している(海音寺潮五郎の指摘による)。

追討
将門謀反の報はただちに京にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕した。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年(940年)1月9日には先に将門謀反の密告をした源経基が賞されて従五位下に叙された。1月19日には参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立した。

同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。貞盛の行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。

間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入った。将門の手許には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて、2月1日に出陣する。貞盛と秀郷は藤原玄茂率いる将門軍の先鋒を撃破して下総国川口へ追撃して来た。合戦になるが、将門軍の勢いはふるわず、退却した。

貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、2月13日、将門の本拠石井に攻め寄せ火を放った。将門は兵を召集するが形勢が悪く集まらず、僅か兵400を率いて陣をしいた。貞盛と秀郷の軍に為憲も加わり、翌2月14日、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし将門が勝ち誇って自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じた。将門は自ら先頭に立ち奮戦するが、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あっけなく討死した。

将門の死により、その関東独立国は僅か2ヶ月で瓦解した。残党が掃討され、将門の弟たちや興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは皆誅殺される。将門の首は京にもたらされ梟首とされた。将門を討った秀郷には従四位下、貞盛には従五位下がそれぞれ授けられた。